無謀にも、英語で漱石。いよいよ本文!

アーロン先生、奮闘中!

時代は明治だぞ。アタマ、切り替える

何しろこの小説が書かれたのは、1914年。明治天皇が崩御され(←正しい表現は別な言葉だと思う)た2年後で、漱石が亡くなる2年前のこと。だから時代は明治の終わり頃。ちなみに漱石が生まれたのは、1867年、江戸時代の最後の年だった。(そんな背景の知識から頭に入れて、スイッチを切り替えないと)
そんなもろもろのことを教えてくれたのが、「Kokoro」の訳者により書かれた序文(前回読んだところ)。今日はドキドキの本文に挑んだ。

いよいよ「Sensei and I」の本文約2ページ!

またもや辞書と格闘して予習。知らない単語が数珠つなぎで出てくるぞ。辞書を引いても引いても、なかなか先へ進まない。主人公の I(私・学生)が友人に誘われ、鎌倉へ行く。なのに、その友人には「母が病気、すぐ帰れ」と電報が届く。結局、一人鎌倉に残って海へ泳ぎに行った。まるで銭湯のように混み合うビーチで、“先生”と初めて出会った。文中にtelegram(テレグラム・電報)とか、rickshaw(リクショウ・人力車)とかが出てきて、面白い。見たことのない明治時代がちょっぴり身近に感じられた。

Kokoroって? Senseiって?

英訳を担当したEdwin McClellan氏は、“kokoro”の意味をラフカディオ・ハーンが表現した“the heart of things”がベストだと思うと序文で語っている。また、Senseiは英語の“teacher”ではなく、フランス語の“maitre(iの上はへ形の山)”〜メートルの方が近いとも。メートルはイタリア語のマエストロ、ドイツ語のマイスターと同様の言葉ですよね。これって、つまり、知識を教えるだけの先生ではなく、技能や道を極めた師匠みたいなニュアンスなのかも。(かなりあやふやですが・・・)

*アーロン先生の顔が…

ひと渡り、切りのよいところまで読み終わってから、先生が質問する。それがなかなか分からない。どうやら「ここに書かれている中で、時代が表れているのは、どんな言葉や表現か?」と聞かれているんだな、とようやく気づいたのが、2回ほど答えて、先生が「????」という顔をした後。答えがどうのという前に、まず質問が分かるようにならなければ。内心、アセリマクリ。

アーロン先生の寸評(英語)